5階の屋根が完成しました。
大棟の上に金鯱を乗せれば完成です。
鯱は姿は魚で頭は虎、大棟の両端に取り付けられ、天守の守り神となっています。
天守が火事の際は口から水を噴きだし火を消すとされています。
夫婦一対で、北側が雄で南側が雌です。
雄の方が少し大きく、口の開きが少し大きめです。
創建時に使われていた金は、慶長大判にして1,940枚分、純金量に換算すると218kgに相当します。
尾張藩の財政難の時にはこの金が使われ、代わりに純度を落とした金が貼り付けられました。
これが3度繰り返されました。現在は18金の金板が88kgで、純金量換算で66kgしか有りません。
この実測図や写真を撮るために足場が組まれていたのですが、この足場を利用して金の鱗58枚が盗まれています。
その後金鯱はどうなったかと言うと、戦災で天守閣が焼失した後、6.6キロだけ溶解状態で焼跡から発見され、金の茶釜と名古屋市旗の傘頭に作り直されています。
ですから現在の金鯱には元々の金鯱の金は使われていません。
名古屋城総合事務所所蔵
細工が細かくなると木の端からポロポロと崩れてしまうので、ヒノキ材で作るのは断念、既製品を使う事にしました。
海洋堂製のフィギュアです。さすが海洋堂、細工が細かいです。
サイズは若干小さめです。
エポキシ系接着剤でくっつけます。
金ピカで無いのでヒノキ材とマッチしています。
完成です。
東面
石垣は詳細な図面が入手できたら考えてみたいと思います。
1階から4階までの窓は壁に穴が開いていて格子がはまっているだけですが、5階の窓は意匠が凝らされています。
まず窓を作ります。
いよいよ棟上げです。
棟持ち柱と母屋を乗せる柱を立てます。
本当は棟木を乗せてから屋根などを作って行くのですが、南面の破風板と北面の破風板の間隔が正確にわからないので、棟木と母屋を乗せるのは破風板を取り付けてからにします。
金城温古録には、2階から4階までは畳の数だけ書かれており、何も置かれていなかったと書かれています。
しかし、5階だけは特別で、詳細な記述が有ります。
どうやら5階は何らかの儀式に使われていたようです。
1階から4階までは天井が無く、梁が向きだしですが、5階は黒漆塗りの豪華な格天井が有ります。
5階は各部屋に部屋名が有り、階段の有る部屋が四の間、階段を出た所から反時計回りに三の間、二の間、一の間となっています。
部屋と部屋の仕切りは無く、素通しで有ったと書かれています。
一の間には大・中・小の櫃(箱)が置かれていました。中身は不明です。
二の間には御祓い棚が長押の上に設けられており、尾張三社の御祓箱が置かれていたようです。
三の間には、御天守見通絵図、御天守方角板、遠眼鏡などが置かれていました。
四の間には御用人が着席するとあります。
遠眼鏡が有ると言う事は、5階の窓は展望窓で、藩主はここから城下を展望していたと言うことですね。
入側(武者走り)には東西南北に各一つずつ窓台が置いて有りました。
東面・西面の大きな千鳥破風完成。
これで3階まで完成しました。
次は4階の屋根です。
軒桁を取り付け、屋根材を貼り付けていきます。
屋根材の長さが短くなってきたので母屋は有りません。
だんだん高くなってきて、立ち上がっての作業が多くなってきました。
カッターマット上でカット、立ち上がって取り付け具合確認、カッターマット上で微調整、立ち上がって接着という具合です。
いい運動になっていますが。
3階南面と北面の破風は千鳥破風に似ていますが入母屋破風です。
写真左が千鳥破風、右が入母屋破風です。
千鳥破風は屋根の裾が隅棟(南面の屋根と東面の屋根が接する部分)に届いていませんが、入母屋破風は裾が隅棟まで届いています。名古屋城の場合はそのまま伸びて3階の屋根の一部になっています。
破風の屋根のラインと3階の屋根のラインがずれないように作らなければなりません。
屋根材を貼って行きます。
破風板を取り付けます。
破風の屋根材を貼り付けます。
3階の屋根と破風の屋根に段差ができないように作ります。
東面と西面が貼り終わりました。
3階の屋根を支える母屋と軒桁を作ります。
屋根板の基部は4階の柱の根元に来るので、4階の外回りの柱を立てます。
4階武者走り上の梁を付けます。
5階の外回りの壁も作ってしまいました。
次は南面・北面の入母屋破風を作ります。
これはかなり難しそう。
天守閣内には37の部屋が有り、ほとんどは畳敷きの座敷です。
部屋の周囲四面はほとんどが引き戸で、まれに板壁が有ります。
これらの部屋は何に使われていたのでしょう?
金城温古録によると、ほとんど使われていなかった事がわかります。
藩主が天守閣内に入ったのは生涯を通じて数度と言う事です。
その際には何らかの儀式が有ったらしいと言う事は5階の説明を読むとわかります。
平時は天守閣は固く施錠されて封印紙が貼られています。鍵の管理は厳重を極め、城代家老が保管しています。最初は藩主が保管していましたが、参勤交代の時に不在になるので城代が保管するようになりました。
城代から鍵の入った箱(封印されている)を預かり解錠するのは御天守鍵奉行の役目です。
毎日、朝・昼・晩確実に施錠されている事を御本丸番の役人が確認します。
毎月6日と21日に天守閣の掃除を行います。
鍵奉行が解錠し、同心10人が天守閣内に入ります。
日頃使われていない所だし、広大な場所ですから、多分掃除はせず窓を開けて風を入れていただけと思われます。
2階の破風が全部完成しました。
これで2階まで完成です。
屋根板を張り付けるとせっかく作った内部がほとんど見えなくなりました。
まあ、見る事より作る事が楽しいので見えなくなっても問題無いのですが。
模型を作る際には昭和実測図を細かく確認しながら進めるのですが、金城温古録と言う本で当時の状況を想像するのも楽しみの一つです。
金城温古録は、文政年間に掃除中間頭本役・奥村得義が藩の命を受けて仕事の合間に記した名古屋城の記録です。
名古屋城大百科とも言うべき本で、各種手続きや習慣まで細かく記されています。
金城温古録の図面によると、1階はいろいろな部屋が有り、いろいろな物が置かれていたようです。
中央の大きな部屋は物置で、他が全て畳敷きなのにここだけは板張りです。調査時点では空き部屋であったということです。
左の方に水帳の間があり、地検帳の入った箱8棹が置かれていました。
図面右下は井桁の間と言われ、地階からの階段と2階への階段、刀架と流しが有ります。
地階の井戸の真上に流しが有り、天井に滑車が付いていて、1階でも水が汲めるようになっていました。
他の部屋は全て座敷で、周りはほとんどが引き戸ですが板壁になっている部分も有ります。
引き戸は、木製なのか、襖なのかは不明ですが、5階の部屋の説明で「御間内境、御襖無く、常に御四間透通しにて」と書かれていますから襖だったかも知れません。
武者走り(入側と言うそうです)には武具が置いて有りました。
調査当時には武具は置いて無く、目録の入った箱が置いて有ったようです。
2階から4階までの説明はほとんど無く、「此より上四重目までは御差置の品無之」と書かれていて、図面も畳の数しか書かれていません。
階段を上がって行っても空っぽの部屋ばかり見る事になります。
なお、畳は長辺が7尺(210センチ)の大京間畳です。
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